2009-09-26
ついに「プロジェクト10の100乗」(Google)の投票が始まった。……しかし
ついに「プロジェクト10の100乗」(Google)の投票が始まった。……しかし 
私もハッとしてグッとくるアイデアを投稿したのだが、内容が投票カテゴリを横断しているのでどこに投票したらいいのか分からない(というか、個別案のエッジがカテゴライズされることで丸まってる)。ディテールが命だと思うんだけどなー。
→プロジェクト10の100乗(Google)
→プロジェクト10の100乗(Google)
2009-09-24
SF作品は普遍性を感じにくい(のかな?)
SF作品は普遍性を感じにくい(のかな?) 
##書きながら「“不変”か?」と気づいたけど微妙なのでママ
過去はずっと過去だし現在もいずれ過去になるわけだけど、未来はどんどん迫ってくる。SFの苦手な人はこの現象を無意識に感じているから、SF作品に“普遍性”を感じにくいのではないか? と思った。
実はそれは分からんでもない。事実、SF作品のディテールで時間の経過によって色あせる部分は多少なりともある。今「ガタカ」を見て、個人を識別するための血液検査シーンに違和感を抱くように。
##ファンタジー作品も異世界を描いている点はSFと同じだけど、SFは科学という鎖で現実とリンクしている点で、似て非なる。
ただ作品によってその賞味期限は異なるし、色あせた部分をメタな視点で抑え込んで読むこともできる(SFの好きな人は得意なんじゃないかな)。今読んでも面白いSFの古典は、賞味期限が長いか、あるいは色あせた部分“以外”のエッジが立っているかのどちらかで、そのどちらかが作品に普遍性を与えている。
とはいえ、SFの持つ宿命的な賞味期限は厳然と存在するわけで、だからこそ現在を生きている人はできるだけ早いうちにSFの古典や、今この瞬間に次々と産まれているであろうSF作品を消費しておいた方が幸せかな、と。私が友達に薦めるのも主にそんな理由だったりする。時間の経過で損する部分が増えてから出会うことになんらメリットはないからね。
##とくに映像作品は賞味期限が短いですな。
……と、SF大好きっ子の私が申しております。最近はあまり人には薦めなくなったなー。
過去はずっと過去だし現在もいずれ過去になるわけだけど、未来はどんどん迫ってくる。SFの苦手な人はこの現象を無意識に感じているから、SF作品に“普遍性”を感じにくいのではないか? と思った。
実はそれは分からんでもない。事実、SF作品のディテールで時間の経過によって色あせる部分は多少なりともある。今「ガタカ」を見て、個人を識別するための血液検査シーンに違和感を抱くように。
##ファンタジー作品も異世界を描いている点はSFと同じだけど、SFは科学という鎖で現実とリンクしている点で、似て非なる。
ただ作品によってその賞味期限は異なるし、色あせた部分をメタな視点で抑え込んで読むこともできる(SFの好きな人は得意なんじゃないかな)。今読んでも面白いSFの古典は、賞味期限が長いか、あるいは色あせた部分“以外”のエッジが立っているかのどちらかで、そのどちらかが作品に普遍性を与えている。
とはいえ、SFの持つ宿命的な賞味期限は厳然と存在するわけで、だからこそ現在を生きている人はできるだけ早いうちにSFの古典や、今この瞬間に次々と産まれているであろうSF作品を消費しておいた方が幸せかな、と。私が友達に薦めるのも主にそんな理由だったりする。時間の経過で損する部分が増えてから出会うことになんらメリットはないからね。
##とくに映像作品は賞味期限が短いですな。
……と、SF大好きっ子の私が申しております。最近はあまり人には薦めなくなったなー。
2009-09-18
これだけはお手上げ(分からない)。女の人に「出産欲」ってあるの?
これだけはお手上げ(分からない)。女の人に「出産欲」ってあるの? 
私は人に「なんで生きてるの?」と問われたら、「失礼なやつだ!」と全力で殴る前に「生に意味があるかどうかは分からないけど、今実際に生きているし、死は選択可能だけど生は選択不可能だし、生理的に死を回避する本能が備わっているらしいしってことを考えると、死に比べて生の方に意味がある可能性が高いからかしら」と答える。つまり根底にある上記の論理こそが私にとっての神であり、これは比較的バルカン人に近い立場と言えるというのはまあ2割方冗談なので聞き流していただくとして。
そこで掲題の件。最近以下の文章を読んだ。
→福島瑞穂:編「産まない選択―子どもを持たない楽しさ」について
主旨としては「産みたい人は産んだらいいし産みたくない人は産まなくていい。ただ産みたくない人を圧迫するような社会はダメ」という感じ。私も同感だし、まぁバランスよくいこうや、という印象である。
ただ一方で、女性の身体には子供を産むためらしき機能が備わっていて、それを利用しないことに対して違和感を抱くのはなんら不自然ではないかな、とも思う。その違和感はかなり漠然としていて「30過ぎまでオナニーしてませんでした」という男に対する思いと同類のものだ。上記はいずれも往々にしてあり得ることだが、少数派であること、生理現象を通過しなかったこと、という2点で直感的に違和感を感じる。「そんなことに違和感感じちゃダメ!」とかいう問題ではなくて、実際にそうなのね。
そこで思ったのだが、女の人に「出産欲」ってあるのだろうか? かわいい子供がほしい、将来的に養ってくれる子供がほしい、というレイヤーではなく、もっともっと生理的な欲求としての出産欲。「あれ? なんか子供が欲しい気がするわ。よく分かんないけど」みたいな。
仮にそうであるなら「産まない選択」っていうのは、欲求を抑制するという意味で、個人の意識を変えただけでは現状を変えられない気もする。問題のレイヤーが違うから。時代や政治は個人がより多くの欲求を開放できるように進んできたんだし、これからも――少なくとも民主主義国家では――進むだろうし。つまり元々はリベラルな発想かもしれんけど、よくよく考えてみたらナンセンス、みたいな。
逆に「出産欲」というものが存在しないとすると、個人が“産まない人”に対して抱く違和感は完全に根拠ゼロの不当なものと言える。社会通念としてざっくりと今すぐドラスティックに切り替える必要があるし、違和感を抱いた人は自分に対して「非論理的乙!乙乙!」と罪悪感を感じまくる必要があるな、と。
いやぁ、こればっかりは男の私には分からないなあ。
実は個人的に、この辺りがはっきりしていないから少子化問題もイマイチうまく考えられない。人間の生理と整合性のとれない社会システムはいつか破綻するんだろうし、少子化問題を生物学として捉えるか社会学として捉えるかで答えが180度変わるんじゃろう、と。普通に考えてどちらもバランスよく考慮するんだろうけど、そのさじ加減って責任重大だよなー、みたいな。
そこで掲題の件。最近以下の文章を読んだ。
→福島瑞穂:編「産まない選択―子どもを持たない楽しさ」について
主旨としては「産みたい人は産んだらいいし産みたくない人は産まなくていい。ただ産みたくない人を圧迫するような社会はダメ」という感じ。私も同感だし、まぁバランスよくいこうや、という印象である。
ただ一方で、女性の身体には子供を産むためらしき機能が備わっていて、それを利用しないことに対して違和感を抱くのはなんら不自然ではないかな、とも思う。その違和感はかなり漠然としていて「30過ぎまでオナニーしてませんでした」という男に対する思いと同類のものだ。上記はいずれも往々にしてあり得ることだが、少数派であること、生理現象を通過しなかったこと、という2点で直感的に違和感を感じる。「そんなことに違和感感じちゃダメ!」とかいう問題ではなくて、実際にそうなのね。
そこで思ったのだが、女の人に「出産欲」ってあるのだろうか? かわいい子供がほしい、将来的に養ってくれる子供がほしい、というレイヤーではなく、もっともっと生理的な欲求としての出産欲。「あれ? なんか子供が欲しい気がするわ。よく分かんないけど」みたいな。
仮にそうであるなら「産まない選択」っていうのは、欲求を抑制するという意味で、個人の意識を変えただけでは現状を変えられない気もする。問題のレイヤーが違うから。時代や政治は個人がより多くの欲求を開放できるように進んできたんだし、これからも――少なくとも民主主義国家では――進むだろうし。つまり元々はリベラルな発想かもしれんけど、よくよく考えてみたらナンセンス、みたいな。
逆に「出産欲」というものが存在しないとすると、個人が“産まない人”に対して抱く違和感は完全に根拠ゼロの不当なものと言える。社会通念としてざっくりと今すぐドラスティックに切り替える必要があるし、違和感を抱いた人は自分に対して「非論理的乙!乙乙!」と罪悪感を感じまくる必要があるな、と。
いやぁ、こればっかりは男の私には分からないなあ。
実は個人的に、この辺りがはっきりしていないから少子化問題もイマイチうまく考えられない。人間の生理と整合性のとれない社会システムはいつか破綻するんだろうし、少子化問題を生物学として捉えるか社会学として捉えるかで答えが180度変わるんじゃろう、と。普通に考えてどちらもバランスよく考慮するんだろうけど、そのさじ加減って責任重大だよなー、みたいな。
2009-09-14
民主主義の唯一の効能は
民主主義の唯一の効能は 
ただ「変ることができる」という一点に尽きていて、そういう意味で「Change」という言葉は根本的かつ圧倒的に的を射ている。
ただ、裏を返すと民主主義は「ただ変われるだけのフレームワーク」であることも意識する必要があって、そこに“正しさ”という概念は一切存在しない。
つまり民主党でも自民党でも、どちらかがより多くの人間にとって“良き”とされる行動を取るまで政権を獲ったり獲られたりするわけだが、その“右往左往できる”ということ自体がフレームワークの“唯一の”効能。“右往左往できないよりまし”という、その程度のフレームワークであり、あくまでもベターな選択肢に過ぎないということは強く意識しておく必要がある。
にも関わらず、たとえば書籍「『みんなの意見』は案外正しい」(笑)のように、個別具体的な現象を挙げて“民主主義”と“正しさ”の相関をさも因果のように語るアホが出てくるから始末が悪い。上記書籍を始め、人から考える力を奪うあらゆるものに対してもっともっと敏感にならないといかん。
正しさは、人+フレームワークで形成されたブラックボックスから自動的に導かれるのではなく、人がフレームワークへの入力を変化させることで能動的に導くものだということを、入力を担う個人が理解する必要がある。
そしてその理解度こそ、その国の民主主義政治が愚衆政治か否かを測るパラメータとなる。
繰り返す。
民主主義の効能は変ることができること“のみ”。自分の胸にザクッと刻み込みつつ、あまねく世界の二足歩行動物に対して周知すべし。そして、これはなにも政治に限った話ではないということにも思いを馳せるべし。
ちんぽこ。
ただ、裏を返すと民主主義は「ただ変われるだけのフレームワーク」であることも意識する必要があって、そこに“正しさ”という概念は一切存在しない。
つまり民主党でも自民党でも、どちらかがより多くの人間にとって“良き”とされる行動を取るまで政権を獲ったり獲られたりするわけだが、その“右往左往できる”ということ自体がフレームワークの“唯一の”効能。“右往左往できないよりまし”という、その程度のフレームワークであり、あくまでもベターな選択肢に過ぎないということは強く意識しておく必要がある。
にも関わらず、たとえば書籍「『みんなの意見』は案外正しい」(笑)のように、個別具体的な現象を挙げて“民主主義”と“正しさ”の相関をさも因果のように語るアホが出てくるから始末が悪い。上記書籍を始め、人から考える力を奪うあらゆるものに対してもっともっと敏感にならないといかん。
正しさは、人+フレームワークで形成されたブラックボックスから自動的に導かれるのではなく、人がフレームワークへの入力を変化させることで能動的に導くものだということを、入力を担う個人が理解する必要がある。
そしてその理解度こそ、その国の民主主義政治が愚衆政治か否かを測るパラメータとなる。
繰り返す。
民主主義の効能は変ることができること“のみ”。自分の胸にザクッと刻み込みつつ、あまねく世界の二足歩行動物に対して周知すべし。そして、これはなにも政治に限った話ではないということにも思いを馳せるべし。
ちんぽこ。
2009-09-04
熱平衡と逆行を感じるCEDEC雑感
熱平衡と逆行を感じるCEDEC雑感 
「売れるゲーム」「面白いゲーム」という視点はそこかしこに散りばめられつつも、やはり「面白い(と思う)ゲームをどう売るか?」というアプローチは少なかったですね。有意義なトピックは多かっただけに少し残念です。
全体的にグローバル化を視野に置いたマーケティングや設計の話が多くて、国内ゲーム市場のガラパゴス化(?)に伴う閉塞感とパイの限界に危機感を抱いているデベロッパが多いという現状を再認識させる内容でした(今に始まったことではないですが)。
そこでカプコン竹内氏の話を始め、海外で戦うための「早い、安い、上手い」「組織改革・総合力」「フレームワーク」「マーケティングとパッケージング」といった話題が引き続き脚光を浴びるわけですが、それはそれで少し違和感があります。
どう考えても上記の方法論を採用できるのは、海外パブリッシャとパワーゲームを繰り広げられる資本力とブランドを有するパワフルな企業だけです。もちろんそういった国内大手パブリッシャ向けの方法論も必要ですが、一方で今急を要しているのは中小のデベロッパが生き残るため、さらには面白いゲームを作り続けるための方法論ではないでしょうか。
そう考えると、まず「海外展開すればパイは増える」という前提は、もう少し吟味する必要があると思います。
たしかにパイは増えるでしょう。そしてパワフルな企業はそのパイに対する絨毯爆撃が可能でしょう(パイに爆撃してどうすんねん、という比喩上の突っ込みはさておき)。
しかし海外でさえ、そのパイを持つ市場がすでに飽和しているのはご存知の通り。時代遅れの表現で言うとレッドオーシャンに飛び込むわけで、海外に進出したらしたで多くなったパイをさらに多くの、さらに強力なプレイヤー達と奪い合うだけの話です。それは今必要とされていることでしょうか? それはむしろ時代に逆行しているといえるのではないでしょうか?
さらに言えば、その市場に合わせてまるで欧米を熱源としてグローバルに拡大する熱平衡の流れに従うようにゲームの面白さをコントロールするのは、それこそ本末転倒のような気がします。少なくともその上で“多様性を保つ”というのは幻想でしょう。可能というならそれは楽観的過ぎます。
やはり現在の流通効率の向上やSteamを始めとした流通インフラの拡大・多様化(途上ですが)を鑑みると、戦略の中心にはピンポイント爆撃を置くべきだと感じます。個人的な感触では、単純に国内市場を見ても、「面白いけど人を選ぶ(売れない)ゲーム」が、高い精度で「買うべき人」にリーチできているかというと、必ずしもそうはなっていないように見えます。その精度を上げるミクロな議論を積み上げることなしに次のステップに思いをめぐらせるのは、少し謙虚さに欠けているのではないでしょうか。
裏を返すと、そのステップこそが海外展開で“パイの広がり”を獲得したときに発揮できる唯一効果的な方法論の獲得と言えるでしょう。この手のトピックの存在感が薄かったのが、冒頭で書いたとおり有意義な講演群の中で私が“少し残念”に感じたCEDECの印象です。
##ただ「インディーズゲームがどう生き残るか」みたいなトピックとはちょっと性質が違う気もします。インディーズゲームは自らインディーズゲームと認識している時点で良くも悪くもインディーズゲームであり、それは売れるための方策を基本的に放棄している作品というのが誤解を覚悟で言う私の認識です。
先ほど少し多様性の話をしましたが、それについて日本のパブリッシャやデベロッパは大いに自信を持つべきだと思います。海外の方が多様性は強いという一般的なイメージは否定しませんが、それこそグローバルな視点でみれば、日本のゲームは多様性の一角を担う確固たる独自性を持ち合わせていると思います。そしてそこれこそが海外展開後のピンポイント爆撃の攻撃力の源になると確信しています。
もちろん私はゲーム制作に携わっていないので、上記は本当の意味で雑感です。なに言ってんだバカとぷんすかなさる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、理論的には大きく間違っていないはずです。持論になりますが、私は「理論的に成功するとされたものが失敗する可能性はあるが、理論的に失敗するとされたものは必ず失敗する」と思っていて、それが多少現在直面している問題の特効薬にはならずとも、あくまでもピンポイント爆撃を推す理由です。
おしまい。
##個人的には富野さんの「原理原則」の話が一番好きですね。すべて語られてしまって、影響力の小さい私なんかが当クソブログで書くことはほとんどなくなっちゃいました。
全体的にグローバル化を視野に置いたマーケティングや設計の話が多くて、国内ゲーム市場のガラパゴス化(?)に伴う閉塞感とパイの限界に危機感を抱いているデベロッパが多いという現状を再認識させる内容でした(今に始まったことではないですが)。
そこでカプコン竹内氏の話を始め、海外で戦うための「早い、安い、上手い」「組織改革・総合力」「フレームワーク」「マーケティングとパッケージング」といった話題が引き続き脚光を浴びるわけですが、それはそれで少し違和感があります。
どう考えても上記の方法論を採用できるのは、海外パブリッシャとパワーゲームを繰り広げられる資本力とブランドを有するパワフルな企業だけです。もちろんそういった国内大手パブリッシャ向けの方法論も必要ですが、一方で今急を要しているのは中小のデベロッパが生き残るため、さらには面白いゲームを作り続けるための方法論ではないでしょうか。
そう考えると、まず「海外展開すればパイは増える」という前提は、もう少し吟味する必要があると思います。
たしかにパイは増えるでしょう。そしてパワフルな企業はそのパイに対する絨毯爆撃が可能でしょう(パイに爆撃してどうすんねん、という比喩上の突っ込みはさておき)。
しかし海外でさえ、そのパイを持つ市場がすでに飽和しているのはご存知の通り。時代遅れの表現で言うとレッドオーシャンに飛び込むわけで、海外に進出したらしたで多くなったパイをさらに多くの、さらに強力なプレイヤー達と奪い合うだけの話です。それは今必要とされていることでしょうか? それはむしろ時代に逆行しているといえるのではないでしょうか?
さらに言えば、その市場に合わせてまるで欧米を熱源としてグローバルに拡大する熱平衡の流れに従うようにゲームの面白さをコントロールするのは、それこそ本末転倒のような気がします。少なくともその上で“多様性を保つ”というのは幻想でしょう。可能というならそれは楽観的過ぎます。
やはり現在の流通効率の向上やSteamを始めとした流通インフラの拡大・多様化(途上ですが)を鑑みると、戦略の中心にはピンポイント爆撃を置くべきだと感じます。個人的な感触では、単純に国内市場を見ても、「面白いけど人を選ぶ(売れない)ゲーム」が、高い精度で「買うべき人」にリーチできているかというと、必ずしもそうはなっていないように見えます。その精度を上げるミクロな議論を積み上げることなしに次のステップに思いをめぐらせるのは、少し謙虚さに欠けているのではないでしょうか。
裏を返すと、そのステップこそが海外展開で“パイの広がり”を獲得したときに発揮できる唯一効果的な方法論の獲得と言えるでしょう。この手のトピックの存在感が薄かったのが、冒頭で書いたとおり有意義な講演群の中で私が“少し残念”に感じたCEDECの印象です。
##ただ「インディーズゲームがどう生き残るか」みたいなトピックとはちょっと性質が違う気もします。インディーズゲームは自らインディーズゲームと認識している時点で良くも悪くもインディーズゲームであり、それは売れるための方策を基本的に放棄している作品というのが誤解を覚悟で言う私の認識です。
先ほど少し多様性の話をしましたが、それについて日本のパブリッシャやデベロッパは大いに自信を持つべきだと思います。海外の方が多様性は強いという一般的なイメージは否定しませんが、それこそグローバルな視点でみれば、日本のゲームは多様性の一角を担う確固たる独自性を持ち合わせていると思います。そしてそこれこそが海外展開後のピンポイント爆撃の攻撃力の源になると確信しています。
もちろん私はゲーム制作に携わっていないので、上記は本当の意味で雑感です。なに言ってんだバカとぷんすかなさる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、理論的には大きく間違っていないはずです。持論になりますが、私は「理論的に成功するとされたものが失敗する可能性はあるが、理論的に失敗するとされたものは必ず失敗する」と思っていて、それが多少現在直面している問題の特効薬にはならずとも、あくまでもピンポイント爆撃を推す理由です。
おしまい。
##個人的には富野さんの「原理原則」の話が一番好きですね。すべて語られてしまって、影響力の小さい私なんかが当クソブログで書くことはほとんどなくなっちゃいました。
2009-09-02
分かっているけど少しイラ。「まずは洋ゲーを遊べ――日本と海外ゲーム市場の本質的な違いを徹底討論」の雑感
分かっているけど少しイラ。「まずは洋ゲーを遊べ――日本と海外ゲーム市場の本質的な違いを徹底討論」の雑感 
→まずは洋ゲーを遊べ――日本と海外ゲーム市場の本質的な違いを徹底討論(ファミ通.com)
KYとしてCEDEC関連のいくつかの記事には反応。上記記事の内容から論理のみを抽出すると、以下のような感じだ。
(1)儲けるには欧米での展開が必要
(2)日本と欧米のゲームは根本的に異なり、
日本人の“面白い”は必ずしも欧米人の“面白い”ではない
(3)だから儲けるには欧米のゲームを学ぶべき
言っていることは“おっしゃるとおり”。
ところで――。
「日本と海外ゲーム市場は本質的に違う」といっておきながら、商売の観点のみで「追い抜かれてしまった、という危機感を持ったほうがいい」といわれると――講演だから多少インパクトのある表現を選んだのだろうけど――ちょっとイラっとくるよねこれ。
あ、いや、だんだん腹が立ってきた。
何いってんだオマエラんとこの国でも儲かってんのは一部のパブリッシャとそのお抱えのデベロッパだけで、中小のデベロッパはレイオフの嵐でバッタバッタと倒産しとるだろうが。それで生まれてきたのが「売れるタイトル」だ? 死ね。そりゃ洋ゲーでも人生が狂うほど面白いタイトルがあるしおれも好きだが、今のその発言を聞く限りやはり今まで通りゲームの“面白さ”におけるフラッグシップは日本のものだね。フッ。しかも今後うち(日本)の開発者は当該記事を含むあらゆる指摘を真摯に受け止めつつも想像を絶するほど面白くてしかも売れるゲームをビシバシ作りまくって世界を席巻してくれるんだぜ! カーッ、ペッ! ……ってあれ!? この言葉の発信元は高橋さんじゃねーか! ズコー!
……みたいな。
実際には、記事中の内容なんかはおそらくほとんどのデベロッパが認識していて、あとは身の振り方をどうしようかみたいな感じじゃないのかな。しらんけど。まぁ作品性と商品性のバランスさえ保たれていれば、どんな形でもいいです。私は。
KYとしてCEDEC関連のいくつかの記事には反応。上記記事の内容から論理のみを抽出すると、以下のような感じだ。
(1)儲けるには欧米での展開が必要
(2)日本と欧米のゲームは根本的に異なり、
日本人の“面白い”は必ずしも欧米人の“面白い”ではない
(3)だから儲けるには欧米のゲームを学ぶべき
言っていることは“おっしゃるとおり”。
ところで――。
「日本と海外ゲーム市場は本質的に違う」といっておきながら、商売の観点のみで「追い抜かれてしまった、という危機感を持ったほうがいい」といわれると――講演だから多少インパクトのある表現を選んだのだろうけど――ちょっとイラっとくるよねこれ。
あ、いや、だんだん腹が立ってきた。
何いってんだオマエラんとこの国でも儲かってんのは一部のパブリッシャとそのお抱えのデベロッパだけで、中小のデベロッパはレイオフの嵐でバッタバッタと倒産しとるだろうが。それで生まれてきたのが「売れるタイトル」だ? 死ね。そりゃ洋ゲーでも人生が狂うほど面白いタイトルがあるしおれも好きだが、今のその発言を聞く限りやはり今まで通りゲームの“面白さ”におけるフラッグシップは日本のものだね。フッ。しかも今後うち(日本)の開発者は当該記事を含むあらゆる指摘を真摯に受け止めつつも想像を絶するほど面白くてしかも売れるゲームをビシバシ作りまくって世界を席巻してくれるんだぜ! カーッ、ペッ! ……ってあれ!? この言葉の発信元は高橋さんじゃねーか! ズコー!
……みたいな。
実際には、記事中の内容なんかはおそらくほとんどのデベロッパが認識していて、あとは身の振り方をどうしようかみたいな感じじゃないのかな。しらんけど。まぁ作品性と商品性のバランスさえ保たれていれば、どんな形でもいいです。私は。
2009-08-31
オンラインゲームと可処分時間と非同期
オンラインゲームと可処分時間と非同期 
「あらゆる娯楽が可処分時間を奪い合う」という表現が――紋切り型で大嫌いだというのはさておき――使用されるようになって久しい。
しかし、オンラインゲームの視点から見るとこの表現は片手落ちだろう。大抵のオンラインゲームに伴う“同期性”は、可処分時間のボリューム面だけでなく、――待ち合わせやメンテナンス待機などの――時間帯(←いい表現が見つからないorz)の面にも制限がある。そしてこの制限こそが、今後オンラインゲームの持つ“可処分時間を消費させる力”を失わせていく。
今必要なのは、時間帯の制限を生まない“非同期”のネット接続であり“非同期”のゲームプレイ。GNOの自動対戦サーバーといいドラクエのすれ違い通信といいtwitterといい、非同期を基本概念としたアーキテクチャは山ほどあるうえ、結果を残している(逆に、非同期の対戦アルゴリズム/サーバーを用意しなかったため面白さが半減したと考えられるタイトルも山ほどある。私の愛するカルネージハートもその一つ)。これを“ゆるいつながりがイイ”などいうマヌケな言葉ではなく“非同期”と明確に認識して、どんどんゲームデザインに盛り込んでほしいと思う。
ちなみにPSP版「グランツーリスモ」(おそらく買う)は、「AI対戦機能」という形で“非同期”要素を盛り込んでいる。この辺りのスピード感(読み?)と実装のセンスはさすがというほかない。
→『グランツーリスモ(PSP版)』山内氏へのインタビューを掲載(ファミ通.com)より
要するに何が言いたいかというと、みんな忙しいのでゲームをプレイしていない時でもゲームがプレイできているような環境を作ってくださいお願いしますということでした。
個人的には「可処分時間を無理矢理に捻出することを強いるようなゲーム」が理想なんだけど、それはさすがに個人的過ぎるので大きな声で主張はしない。
〜追記〜
そうだ書き忘れた。この非同期要素は、
→【島国大和】ゲームはいずれ全部オンラインゲームになる(4Gamer.net)より
……なゲームばかりになることを止める手がかりになるかと。そもそもそういうゲームは私の好みではないけど。
しかし、オンラインゲームの視点から見るとこの表現は片手落ちだろう。大抵のオンラインゲームに伴う“同期性”は、可処分時間のボリューム面だけでなく、――待ち合わせやメンテナンス待機などの――時間帯(←いい表現が見つからないorz)の面にも制限がある。そしてこの制限こそが、今後オンラインゲームの持つ“可処分時間を消費させる力”を失わせていく。
今必要なのは、時間帯の制限を生まない“非同期”のネット接続であり“非同期”のゲームプレイ。GNOの自動対戦サーバーといいドラクエのすれ違い通信といいtwitterといい、非同期を基本概念としたアーキテクチャは山ほどあるうえ、結果を残している(逆に、非同期の対戦アルゴリズム/サーバーを用意しなかったため面白さが半減したと考えられるタイトルも山ほどある。私の愛するカルネージハートもその一つ)。これを“ゆるいつながりがイイ”などいうマヌケな言葉ではなく“非同期”と明確に認識して、どんどんゲームデザインに盛り込んでほしいと思う。
ちなみにPSP版「グランツーリスモ」(おそらく買う)は、「AI対戦機能」という形で“非同期”要素を盛り込んでいる。この辺りのスピード感(読み?)と実装のセンスはさすがというほかない。
→『グランツーリスモ(PSP版)』山内氏へのインタビューを掲載(ファミ通.com)より
『グランツーリスモ』(PSP版)では、シングルレースモードでプレイすると、自分のAIドライバーパラメータが“成長”します。そして成長させたAIドライバーをアドホック対戦時に使う……つまり、“自分ではドライブせずに、育てたAIに対戦させる”というようなことができます。AIに走らせるか、自分で走るかは、レース中にリアルタイムに切り換えることもできます。これは、従来のドライバーの腕だけによるガチンコ対戦レースとは、また違ったおもしろさが体験できると思いますよ。
要するに何が言いたいかというと、みんな忙しいのでゲームをプレイしていない時でもゲームがプレイできているような環境を作ってくださいお願いしますということでした。
個人的には「可処分時間を無理矢理に捻出することを強いるようなゲーム」が理想なんだけど、それはさすがに個人的過ぎるので大きな声で主張はしない。
〜追記〜
そうだ書き忘れた。この非同期要素は、
→【島国大和】ゲームはいずれ全部オンラインゲームになる(4Gamer.net)より
ちなみに,まったくの個人的な好みを言えば,ゲームに長時間拘束されるのはまっぴらなので,「ドカーン。ズガーン。バコーン。で,2時間ぐらい腹いっぱい楽しめて8千円」とか,そういうゲームが出てくる土壌があってほしいと心から思っている。
コンシューマで60時間遊べるゲームを2時間に圧縮したら,そりゃ面白いと思うんだよね。でも,それだと即中古で売られちゃうから,現時点では夢物語。
……なゲームばかりになることを止める手がかりになるかと。そもそもそういうゲームは私の好みではないけど。
2009-08-27
「東大名誉教授 原島博氏インタビュー」(CEDEC関連)の雑感と追加で聞きたい点
「東大名誉教授 原島博氏インタビュー」(CEDEC関連)の雑感と追加で聞きたい点 
→技術を売りにしているうちは,成熟期とはいえない。CEDEC 2009で基調講演を担当する原島 博教授が業界の外側から見る「ゲーム業界」とは(4Gamer.net)
→【CEDEC 2009特別企画】東大名誉教授 原島博氏特別インタビュー「主役が交代している」とは何を意味するのか!? 情報技術のスペシャリストにゲーム産業の未来を聞く(GAME Watch)
どちらも別々の切り口で原島氏にアプローチされていて、とても興味深く読めました。「顔」と「宇宙」の話はもっともっと聞いてみたいですね。
さて、氏はゲームの専門家ではないとのことなので、研究者の立場でゲームに向き合う方として、追加で聞いてみたい点を二つばかり。
■ゲームに関する学問・研究について
インタビューの中で「ゲームに関しては技術の研究が先行している」といった趣旨の発言がありましたが、では大学を始めとした高等教育機関で、実際に「ゲームの面白さ」についての教育・研究はどの程度行われているのでしょうか? また行われる余地があるのでしょうか?
たしかに、あらゆるメディアから発せられるゲームに関する話題は、主に技術やマーケティングに偏っていて、これは個人的にも危惧(ってほどのことはないけど)しています。
一方で、では高等教育機関畑で――たとえば「コンピュータゲームとトランプの違い」のような――ラディカルなテーマに関する研究が行われることがあるのでしょうか?
少なくともその手の研究結果はあまり耳にしません。いや、耳にはしますが、情報工学・心理学・経済学・医学など横断的かつバラエティ豊富な切り口での研究結果は、その多くが外国発のものだったりします(ソウル中央大学のウィ教授の研究はここでいう「ゲームの面白さに関する研究」よりは少し市場分析寄りですが、割と個別具体的ではありますね)。
単純にこの現象からは、ゲームというものは研究対象になりえないという認識、ひいては産業としてまだまだ市民権を得られていないといった印象を抱きます(別にそれがダメ、と言っているわけではなくて“見える”という話です)。仮に研究されていたとしても、アウトプットのチャネルが確立されていなければ「オタク学」(©岡田斗司夫たん)の域を出ないのでは? と思いが強いです。
研究者のキャリアパスが不明瞭だったりするだろうし、個人的にも「ゲームの面白さ」を研究し続ける人間のイメージは掴めません。もっと言えばこれは「娯楽産業の宿命」なのかもしれませんが、では娯楽産業のミクロなテーマが研究対象になりうるか否かの溝はどのあたりにあって、その溝を越えるためにどういった整備が必要になるのか、その辺りのお考えを伺ってみたいです。
■んで、もう一つはゲーム(業界?)の将来像について。
やはりインタフェースの話題が出ていましたね(笑)。インタフェースについて書き出すと長くなるのでサクッといきますが、将来像について聞いてみたいのは、主に下記の3点です。
・パッドというインタフェースが定着した現実はどう分析できるか?
・異なるインタフェースが登場したとき、トレードオフとして何が失われるか?
・インタフェースの進化の“方向”について
個人的には過去のエントリーでも書いてきたとおり、パッドは現在の(まぁ古典的な)コンピュータゲームにあらゆる点でマッチしており、たとえば2時間前後が映画の最適な尺だとされていることに似た関係だと考えています。そういった総括なしに次々とインタフェースが開発されてスタンダードとなっていくことで(ならないとは思っていますが)、得るものと同時に失われるものもあるのではないか、そしてそれこそが“今”研究すべきことではないのかという気がしています。
またインタフェースは、人間の入出力器官をどの程度駆使するかによって、パッド+αかパッド−αの二種類の進化が想像できます。にも関わらず「ヌンチャク」や「Project Natal」に代表される新たなインタフェースの多くが“+α”を志向していることは何を示唆しているのでしょうか?
以上。
###########
というか、誰に向けて書いているんでしょうね私は(笑)。しかも冒頭で話題を絞った割には、聞く人を大きく間違っているような気もしますし(笑)。
まぁ個人的には上記のような点に興味があるので、CEDECに行かない私の代わりにどなたか適した人をつかまえて聞いてきてください、みたいな。
→【CEDEC 2009特別企画】東大名誉教授 原島博氏特別インタビュー「主役が交代している」とは何を意味するのか!? 情報技術のスペシャリストにゲーム産業の未来を聞く(GAME Watch)
どちらも別々の切り口で原島氏にアプローチされていて、とても興味深く読めました。「顔」と「宇宙」の話はもっともっと聞いてみたいですね。
さて、氏はゲームの専門家ではないとのことなので、研究者の立場でゲームに向き合う方として、追加で聞いてみたい点を二つばかり。
■ゲームに関する学問・研究について
インタビューの中で「ゲームに関しては技術の研究が先行している」といった趣旨の発言がありましたが、では大学を始めとした高等教育機関で、実際に「ゲームの面白さ」についての教育・研究はどの程度行われているのでしょうか? また行われる余地があるのでしょうか?
たしかに、あらゆるメディアから発せられるゲームに関する話題は、主に技術やマーケティングに偏っていて、これは個人的にも危惧(ってほどのことはないけど)しています。
一方で、では高等教育機関畑で――たとえば「コンピュータゲームとトランプの違い」のような――ラディカルなテーマに関する研究が行われることがあるのでしょうか?
少なくともその手の研究結果はあまり耳にしません。いや、耳にはしますが、情報工学・心理学・経済学・医学など横断的かつバラエティ豊富な切り口での研究結果は、その多くが外国発のものだったりします(ソウル中央大学のウィ教授の研究はここでいう「ゲームの面白さに関する研究」よりは少し市場分析寄りですが、割と個別具体的ではありますね)。
単純にこの現象からは、ゲームというものは研究対象になりえないという認識、ひいては産業としてまだまだ市民権を得られていないといった印象を抱きます(別にそれがダメ、と言っているわけではなくて“見える”という話です)。仮に研究されていたとしても、アウトプットのチャネルが確立されていなければ「オタク学」(©岡田斗司夫たん)の域を出ないのでは? と思いが強いです。
研究者のキャリアパスが不明瞭だったりするだろうし、個人的にも「ゲームの面白さ」を研究し続ける人間のイメージは掴めません。もっと言えばこれは「娯楽産業の宿命」なのかもしれませんが、では娯楽産業のミクロなテーマが研究対象になりうるか否かの溝はどのあたりにあって、その溝を越えるためにどういった整備が必要になるのか、その辺りのお考えを伺ってみたいです。
■んで、もう一つはゲーム(業界?)の将来像について。
やはりインタフェースの話題が出ていましたね(笑)。インタフェースについて書き出すと長くなるのでサクッといきますが、将来像について聞いてみたいのは、主に下記の3点です。
・パッドというインタフェースが定着した現実はどう分析できるか?
・異なるインタフェースが登場したとき、トレードオフとして何が失われるか?
・インタフェースの進化の“方向”について
個人的には過去のエントリーでも書いてきたとおり、パッドは現在の(まぁ古典的な)コンピュータゲームにあらゆる点でマッチしており、たとえば2時間前後が映画の最適な尺だとされていることに似た関係だと考えています。そういった総括なしに次々とインタフェースが開発されてスタンダードとなっていくことで(ならないとは思っていますが)、得るものと同時に失われるものもあるのではないか、そしてそれこそが“今”研究すべきことではないのかという気がしています。
またインタフェースは、人間の入出力器官をどの程度駆使するかによって、パッド+αかパッド−αの二種類の進化が想像できます。にも関わらず「ヌンチャク」や「Project Natal」に代表される新たなインタフェースの多くが“+α”を志向していることは何を示唆しているのでしょうか?
以上。
###########
というか、誰に向けて書いているんでしょうね私は(笑)。しかも冒頭で話題を絞った割には、聞く人を大きく間違っているような気もしますし(笑)。
まぁ個人的には上記のような点に興味があるので、CEDECに行かない私の代わりにどなたか適した人をつかまえて聞いてきてください、みたいな。
2009-08-24
オンラインゲームが不完全な理由&だからこそ受け入れられているという件。ネガティブな話ではなくて
オンラインゲームが不完全な理由&だからこそ受け入れられているという件。ネガティブな話ではなくて 
(3点リーダーが……になって気持ち悪い……。ほらまた……)
これまでもあちこちで書き散らかしてきたように、私は「オンラインゲームはゲームとして不完全な形(≠面白くない)」と考えている。しかし何度も書いてきた割には根拠が断片的で多くの人にうまく理解してもらうに足りないと感じたので、少しまとめておこうと思う。主に自分のために。
※不完全……上記も含め、以下“不完全だと感じる”と読み替えていただけるとこれ幸い。
まず“コンピュータゲーム”は、プレイヤーの入力を受け、その入力を基にした出力が仮想世界にどう変化を及ぼすかということを楽しむためのシミュレータであるといのうが私の根本の理解(※)で、早い話が「人の代わりにプレイヤーと遊んでくれる装置」というのが個人的な主張の根幹をなしている。
※もちろんシミュレータとして、現実世界の現象をデフォルメすると同時にハードルの低い入力インターフェースを用意することでうんたらかんたら〜といった特徴もあり、むしろ私はそちらに興味があるんだけど、今回の論点ではある程度無視できるのでまた改めて。
その仮想世界の多くは、環境や人を現実に近づけることが“向上”とされていて、たとえばNPCなどはできるだけ現実世界のプレイヤーキャラクターに近い振る舞いをするよう、思考回路が設計されていく。
問題は、“プレイヤーキャラクター”と“プレイヤーキャラクターのような振る舞いをするNPC”はまったく別物ということだ。リアルタイム性を伴う多くのオンラインゲームが不完全なのは、この部分をまさにプレイヤーキャラクターに置き換えてしまうことで解決しようとした点にある。
なぜそれが問題なのか? それはゲームに社会性を持ち込むことになったから。
冒頭、私は「人の代わりに遊んでくれる装置」をコンピュータゲームだと書いた。ではなぜ人ではなくて“人の代わり”なのかというと、それは“社会性を排除したかった”からにほかならない。ここで言う社会性は「会話」や「マナー」など、もっと具体的にいうと、「待ち合わせ」や「約束」など、人が2人以上になると発生する手続き全般のことである。
上記のように本来は排除したかったはずの社会性が、リアルタイム性を伴うオンライゲームには付加されている。これが私が“不完全”と感じる第一の理由である。
ここでこう考える人もいるだろう。「オンライゲームは社会性があるからこそ面白くて、(かつては)新規性があり、これほどまでに受け入れられているのではないか」と。
これは“まさにその通り”で、返す言葉はない。
ただそれは「“不完全である”ということと“面白い”ことは矛盾しない」だけの話である。
社会性の持つ愉悦は、本来“ストレス”を伴う愉悦で、それは現実世界の学校や会社でいくらでも味わうことができる。だからこそコンピュータゲームはそれらを排除しようとして生まれてきたし、“コンピュータゲームの正しい進化”に社会性の入り込む余地は本来ないはずなのだ。誤解を承知で言えば。
にも関わらず、その手の愉悦をゲーム内に必要とするのは、現実世界で社会性の持つ――ストレスを含む――愉悦を味わえていないことの裏返しなのではないか、というのがオンラインゲーム隆盛にまつわる一般論に対する私の理解だったりする。オンラインゲームはその不完全性がむしろ魅力なのだな(※)、と。読む人が読んだら不快に聞こえそうでものすごく不安なんだけど(怒らないでね!)。
※ただしこの部分には意図的に論理の飛躍が含まれていて、「オンラインゲームの特性(オープンフィールドだったり○○だったりなどなど)が発する面白さが社会性を持つことによるデメリットを単純に上回っている」可能性もある。ここでは私の主観、とくに“最近の私がオンラインゲームを敬遠している理由”から帰納して一般化しているので注意。
まとめると、
・オンラインゲームは不完全である
・オンラインゲームの不完全性と世相が合致している
という二つの理由で“現在は”広く受け入れられているのではないかと言いたいわけであるんであります。こう書くとびっくりするほど月並みなんだけど、結論なんかどうでもいい。
ここまでが、過去の主張の断片をまとめたもの。
じゃあ私の思う“完全形に近づく”とはゲームがどのような形になることか? というのは――誰も興味を持っていないのはさておき――また今度。本エントリー自体が少し長いし、デスクトップPCのある部屋はクーラーが無くて暑いので。一つだけ書いておくとすれば、この不完全さは“リアルタイム性をもったオンライン要素”にのみ存在する、という感じ。
念を押しておくと、私はオンラインゲームが面白くないとかダメとかと言っているのではなく(だって私もそれなりに遊んできたし)、「向かう方向はどっち?」という話をしている。かつてオンラインゲームが面白かったことは認めつつも、私も含めて多くの人が抱いているであろうオンラインゲームに対する漠然とした不満はどこからくるのだろう、というのを興味の対象としているだけだ。
しかし、この手の議論はあまり表に出てこない(あるところにはあるんだけど……)。少なくとも「さあ、ゲームを作ろう!」と思ったときに、この思考がまったく頭をよぎらないわけがないし、よぎらなかったとしたらそのゲームが面白くなる可能性はものすごく低くなる(おそらく、少なくとも私にとっては)と思うんだけど。
こういう定性的な話って書きにくかったり、書きづらかったりするのは分かるんだけどねえ。あんま気にすんなや、って感じなんだけども。

▲拾いもの
これまでもあちこちで書き散らかしてきたように、私は「オンラインゲームはゲームとして不完全な形(≠面白くない)」と考えている。しかし何度も書いてきた割には根拠が断片的で多くの人にうまく理解してもらうに足りないと感じたので、少しまとめておこうと思う。主に自分のために。
※不完全……上記も含め、以下“不完全だと感じる”と読み替えていただけるとこれ幸い。
まず“コンピュータゲーム”は、プレイヤーの入力を受け、その入力を基にした出力が仮想世界にどう変化を及ぼすかということを楽しむためのシミュレータであるといのうが私の根本の理解(※)で、早い話が「人の代わりにプレイヤーと遊んでくれる装置」というのが個人的な主張の根幹をなしている。
※もちろんシミュレータとして、現実世界の現象をデフォルメすると同時にハードルの低い入力インターフェースを用意することでうんたらかんたら〜といった特徴もあり、むしろ私はそちらに興味があるんだけど、今回の論点ではある程度無視できるのでまた改めて。
その仮想世界の多くは、環境や人を現実に近づけることが“向上”とされていて、たとえばNPCなどはできるだけ現実世界のプレイヤーキャラクターに近い振る舞いをするよう、思考回路が設計されていく。
問題は、“プレイヤーキャラクター”と“プレイヤーキャラクターのような振る舞いをするNPC”はまったく別物ということだ。リアルタイム性を伴う多くのオンラインゲームが不完全なのは、この部分をまさにプレイヤーキャラクターに置き換えてしまうことで解決しようとした点にある。
なぜそれが問題なのか? それはゲームに社会性を持ち込むことになったから。
冒頭、私は「人の代わりに遊んでくれる装置」をコンピュータゲームだと書いた。ではなぜ人ではなくて“人の代わり”なのかというと、それは“社会性を排除したかった”からにほかならない。ここで言う社会性は「会話」や「マナー」など、もっと具体的にいうと、「待ち合わせ」や「約束」など、人が2人以上になると発生する手続き全般のことである。
上記のように本来は排除したかったはずの社会性が、リアルタイム性を伴うオンライゲームには付加されている。これが私が“不完全”と感じる第一の理由である。
ここでこう考える人もいるだろう。「オンライゲームは社会性があるからこそ面白くて、(かつては)新規性があり、これほどまでに受け入れられているのではないか」と。
これは“まさにその通り”で、返す言葉はない。
ただそれは「“不完全である”ということと“面白い”ことは矛盾しない」だけの話である。
社会性の持つ愉悦は、本来“ストレス”を伴う愉悦で、それは現実世界の学校や会社でいくらでも味わうことができる。だからこそコンピュータゲームはそれらを排除しようとして生まれてきたし、“コンピュータゲームの正しい進化”に社会性の入り込む余地は本来ないはずなのだ。誤解を承知で言えば。
にも関わらず、その手の愉悦をゲーム内に必要とするのは、現実世界で社会性の持つ――ストレスを含む――愉悦を味わえていないことの裏返しなのではないか、というのがオンラインゲーム隆盛にまつわる一般論に対する私の理解だったりする。オンラインゲームはその不完全性がむしろ魅力なのだな(※)、と。読む人が読んだら不快に聞こえそうでものすごく不安なんだけど(怒らないでね!)。
※ただしこの部分には意図的に論理の飛躍が含まれていて、「オンラインゲームの特性(オープンフィールドだったり○○だったりなどなど)が発する面白さが社会性を持つことによるデメリットを単純に上回っている」可能性もある。ここでは私の主観、とくに“最近の私がオンラインゲームを敬遠している理由”から帰納して一般化しているので注意。
まとめると、
・オンラインゲームは不完全である
・オンラインゲームの不完全性と世相が合致している
という二つの理由で“現在は”広く受け入れられているのではないかと言いたいわけであるんであります。こう書くとびっくりするほど月並みなんだけど、結論なんかどうでもいい。
ここまでが、過去の主張の断片をまとめたもの。
じゃあ私の思う“完全形に近づく”とはゲームがどのような形になることか? というのは――誰も興味を持っていないのはさておき――また今度。本エントリー自体が少し長いし、デスクトップPCのある部屋はクーラーが無くて暑いので。一つだけ書いておくとすれば、この不完全さは“リアルタイム性をもったオンライン要素”にのみ存在する、という感じ。
念を押しておくと、私はオンラインゲームが面白くないとかダメとかと言っているのではなく(だって私もそれなりに遊んできたし)、「向かう方向はどっち?」という話をしている。かつてオンラインゲームが面白かったことは認めつつも、私も含めて多くの人が抱いているであろうオンラインゲームに対する漠然とした不満はどこからくるのだろう、というのを興味の対象としているだけだ。
しかし、この手の議論はあまり表に出てこない(あるところにはあるんだけど……)。少なくとも「さあ、ゲームを作ろう!」と思ったときに、この思考がまったく頭をよぎらないわけがないし、よぎらなかったとしたらそのゲームが面白くなる可能性はものすごく低くなる(おそらく、少なくとも私にとっては)と思うんだけど。
こういう定性的な話って書きにくかったり、書きづらかったりするのは分かるんだけどねえ。あんま気にすんなや、って感じなんだけども。

▲拾いもの
2009-08-19
無料オンラインゲームと課金方式の件に微妙に反応
無料オンラインゲームと課金方式の件に微妙に反応 
→【切込隊長】そろそろ「無料」と銘打つのはやめにしないか,オンラインゲーム業界は(4Gamer.net)
やっぱり隊長の記事は楽しいですな。私なんかは「課金方式とゲームデザインは不可分で、サービス提供側として今このタイミングで無料を謳わなければならないゲームを作った(選んだ)時点で負け」とか身も蓋も愛もない主張になってしまうけど、それはやっぱり立ち位置の問題なのかな。あと私の知見の狭さと。
個人的にゲームの成功の分水嶺となる要素は、主にゲームデザイン(「ゲームのメタタイプ」と「テーマ」の組み合わせ)と、時系列で見たそのゲームの位置によって決まると考えている(もちろん他にもあるけど、まぁ便宜上)。
時系列で見ると、ゲームのメタタイプとテーマをうまくバランスさせたタイトルがまず成功し、そのあと大同小異なタイトルが量産されることになる。この小異部分は、本来はゲームのメタタイプとテーマの組み合わせによって表現されるものだったが、ここに月額や基本無料+アイテム課金という課金方式が混入。それらを含めた小異部分が分水嶺として働いていた時期はもちろんあるが、とくに課金方式は、現在のプレイヤーにとって差別化要素となりえない瑣末な問題と化し、単に運営側の都合によるものとなった。
というよりもむしろ、現在では「基本無料」という謳い文句は自らを「基本無料ゲーム」というカテゴリに追いやるものでしかなく、とくにロイヤルカスタマーと成りうる廃人から見れば所詮〜という印象を与えるレッテルとなっている。そうしてゲームのメタタイプとテーマの妙を吟味してくれるプレイヤーを逃すことで、基本無料ゲームはやはり基本無料ゲームというカテゴリ然としたサービスやアップデートを繰り返し、もはや様式美とも言える衰退ラインを描くというのが私の印象。おそらくプレイヤーは課金方式とゲームデザインが不可分なことを肌で感じているからこのような現象になる。これまでに起こったことを偉そうに書いただけだけど。
……と、あと倍ぐらいツラツラ書いたのだが、延々と後ろ向きな内容が続くのでやめよう。それでも、せっかくなので課金の話を。
アイテム課金や制限解除課金を採用しているゲームで気になるのは、非課金/課金の境界の設計に割と無頓着(に見える)なこと。ただでさえ課金は複数のハードルをプレイヤーに強いていて、“お金を払う”という当然のハードル以外にも、「課金プラットフォームの理解」や「課金プラットフォームを利用する手間」というハードルをプレイヤーの前にそびえ立たせている。それは金額の問題ではなく、1円でも1万円でも変わらない障壁となる。
さらに言えば、その境界は当然「ゲームのやめどき」を提供するタイミングでもある。プレイしていて「アイテムほしいな」とか「この先のクエストもやりたいな」と感じたときに「続けますか?やめますか?」と問われるスキームなのである。こう書くとすげーな。
普通に考えて、上記のハードルを取り除くためには“境界の到達前”に「お金を支払う」という行為を経験させて境界の位置をずらすことが重要なはずで、宝くじでも押尾の唾液でものりピーの毛髪でもいいから、1円〜10円程度の小額で、かつ必ず金額以上の価値を持ち、広くマスにリーチできる商品(つまり当該ゲームより遠ければ遠いほど良し)を何が何でも死力を尽くして購入させるべきだと思う。つまりは一点集中すべき唯一のポイントとなるはずなのだが、その境界への配慮をあまり感じない。少なくとも私は。
いや、たしかに境界以前に支払いを経験させるのがいかに困難かはよく分かるし、集客としての基本無料スキームとして矛盾する点があったりするけど、最低限その程度境界を意識した施策を打たねばならないという宿命を背負っているのが、定額・定期課金以外の課金方式なんじゃないかと思うわけで。
同じような話で、かつてキラータイトルという言葉は、いわゆる「プラットフォームの売り上げを牽引するようなタイトル」を指して使用されていた。しかし、少なくともコンシューマ機のようにプラットフォームごとにLiveやWi-Fiといった課金インフラの利用を前提としたタイトルを提供する現在のプラットフォームにとっては、前述の“境界”を通過させる役割を果たしたタイトルやサービスが、真のキラータイトルになるんじゃないかと思うんだけど、それを意識している片鱗をどこにも見ないというのが正直な印象だったりする。もっとがんがれ、みたいな。
うーんなんか面白くないな。やっぱり自分の関心がそれほど高くないからかなー。
書いて損した。

▲拾いもの
やっぱり隊長の記事は楽しいですな。私なんかは「課金方式とゲームデザインは不可分で、サービス提供側として今このタイミングで無料を謳わなければならないゲームを作った(選んだ)時点で負け」とか身も蓋も愛もない主張になってしまうけど、それはやっぱり立ち位置の問題なのかな。あと私の知見の狭さと。
個人的にゲームの成功の分水嶺となる要素は、主にゲームデザイン(「ゲームのメタタイプ」と「テーマ」の組み合わせ)と、時系列で見たそのゲームの位置によって決まると考えている(もちろん他にもあるけど、まぁ便宜上)。
時系列で見ると、ゲームのメタタイプとテーマをうまくバランスさせたタイトルがまず成功し、そのあと大同小異なタイトルが量産されることになる。この小異部分は、本来はゲームのメタタイプとテーマの組み合わせによって表現されるものだったが、ここに月額や基本無料+アイテム課金という課金方式が混入。それらを含めた小異部分が分水嶺として働いていた時期はもちろんあるが、とくに課金方式は、現在のプレイヤーにとって差別化要素となりえない瑣末な問題と化し、単に運営側の都合によるものとなった。
というよりもむしろ、現在では「基本無料」という謳い文句は自らを「基本無料ゲーム」というカテゴリに追いやるものでしかなく、とくにロイヤルカスタマーと成りうる廃人から見れば所詮〜という印象を与えるレッテルとなっている。そうしてゲームのメタタイプとテーマの妙を吟味してくれるプレイヤーを逃すことで、基本無料ゲームはやはり基本無料ゲームというカテゴリ然としたサービスやアップデートを繰り返し、もはや様式美とも言える衰退ラインを描くというのが私の印象。おそらくプレイヤーは課金方式とゲームデザインが不可分なことを肌で感じているからこのような現象になる。これまでに起こったことを偉そうに書いただけだけど。
……と、あと倍ぐらいツラツラ書いたのだが、延々と後ろ向きな内容が続くのでやめよう。それでも、せっかくなので課金の話を。
アイテム課金や制限解除課金を採用しているゲームで気になるのは、非課金/課金の境界の設計に割と無頓着(に見える)なこと。ただでさえ課金は複数のハードルをプレイヤーに強いていて、“お金を払う”という当然のハードル以外にも、「課金プラットフォームの理解」や「課金プラットフォームを利用する手間」というハードルをプレイヤーの前にそびえ立たせている。それは金額の問題ではなく、1円でも1万円でも変わらない障壁となる。
さらに言えば、その境界は当然「ゲームのやめどき」を提供するタイミングでもある。プレイしていて「アイテムほしいな」とか「この先のクエストもやりたいな」と感じたときに「続けますか?やめますか?」と問われるスキームなのである。こう書くとすげーな。
普通に考えて、上記のハードルを取り除くためには“境界の到達前”に「お金を支払う」という行為を経験させて境界の位置をずらすことが重要なはずで、宝くじでも押尾の唾液でものりピーの毛髪でもいいから、1円〜10円程度の小額で、かつ必ず金額以上の価値を持ち、広くマスにリーチできる商品(つまり当該ゲームより遠ければ遠いほど良し)を何が何でも死力を尽くして購入させるべきだと思う。つまりは一点集中すべき唯一のポイントとなるはずなのだが、その境界への配慮をあまり感じない。少なくとも私は。
いや、たしかに境界以前に支払いを経験させるのがいかに困難かはよく分かるし、集客としての基本無料スキームとして矛盾する点があったりするけど、最低限その程度境界を意識した施策を打たねばならないという宿命を背負っているのが、定額・定期課金以外の課金方式なんじゃないかと思うわけで。
同じような話で、かつてキラータイトルという言葉は、いわゆる「プラットフォームの売り上げを牽引するようなタイトル」を指して使用されていた。しかし、少なくともコンシューマ機のようにプラットフォームごとにLiveやWi-Fiといった課金インフラの利用を前提としたタイトルを提供する現在のプラットフォームにとっては、前述の“境界”を通過させる役割を果たしたタイトルやサービスが、真のキラータイトルになるんじゃないかと思うんだけど、それを意識している片鱗をどこにも見ないというのが正直な印象だったりする。もっとがんがれ、みたいな。
うーんなんか面白くないな。やっぱり自分の関心がそれほど高くないからかなー。
書いて損した。

▲拾いもの